シャネルの歴史
「シャネル(Chanel)」は、ココ・シャネルによって設立された、フランスのラグジュアリーブランドです。
世界で最も有名なフレグランスの「シャネルNo.5」や、女性なら一度は持ちたいチェーンバッグなど、幅広いジャンルのアイテムを展開しているシャネルは、ファッション史においても数々の革命を起こしており、デザイナーのココ・シャネルは、20世紀で最も影響力があったファッションデザイナーとして現在も語り継がれてます。
女性用帽子専門店からスタートしたシャネルが、フランスを代表するブランドに成長するまでの間には、波乱万丈な歴史があり、これまでの歴史を辿っていくことでブランドについて深く知ることができ、より魅力を感じることができるかもしれません。
そこで今回は、人気ブランド「シャネル」の歴史についてご紹介します。
目次
シャネルの歴史 第一章
創業者ココ・シャネル(ガブリエル・ボヌール・シャネル)の誕生
1883年、フランスのソミュールにある慈善病院で、ガブリエル・ボヌール・シャネルが生まれます。
父のアルベール・シャネルは作業着や下着を売る行商人として働いていましたが、裕福な家庭では無く、一家で一部屋の住居に、すし詰め状態で暮らしていたと言います。
母のジャンヌはシャネル氏が12歳のときに亡くなり、その後、父のアルベール氏は、2人いた息子を農場労働者に送り出し、シャネル氏を含む3人の娘たちは、オーバジーヌにある孤児院に預けられることになります。
孤児院は聖母マリア聖心会によって運営されていたことから厳しい規律があり、孤児院の生活はシャネル氏にとって惨めな経験だったと言われていますが、そんな中で孤児院では裁縫を教わる機会を与えられ、ここでの経験が後のブランドの設立につながることになります。
18歳になるとカトリック女子寄宿舎に預けられ、その後は6年間洋裁を学び、仕立て屋で働くことになります。
さらに、副業としてキャバレーで歌う仕事もしており、やがて「ラ・ロトンド」と呼ばれるショーを開催するカフェで舞台デビューを果たし、この場所でシャネル氏はココ(Coco)と言う名前で呼ばれるようになったと言われています。
ココと呼ばれるようになった理由には、正確には明かされていないですが、彼女がよく歌っていた「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」と言う歌が由来とも考えられています。
1906年、シャネル氏はさらに大きな舞台に立つことを目指し、フランスの温泉リゾート地であるビィシーに向かいます。
しかし、競争の激しい世界で活躍するチャンスを得ることができず、結局は「ラ・ロトンド」に出戻りすることになります。
当時、シャネル氏は、エティエンヌ・バルサンと言う、多大な資産を抱える男性と交際しており、バルサン氏の家で暮らしていた際に、バルサン家を出入りしている女性の為に、帽子のデザインをしてあげていました。
シンプルながらもデザイン性の高いシャネル氏の帽子を見たバルサン氏は、シャネル氏に芸能人の夢は諦めて、帽子作りをすることを強く勧め、説得を受け入れたシャネル氏は帽子職人のライセンスを取得することになります。
シャネルの歴史 第二章
シャネルの創業
1909年、バルサン氏の援助により、パリ17区マルゼルブ大通りに帽子店をオープンします。
その翌年の1910年、パリ・カンボン通り21番地に「シャネルモード」と言う女性用帽子専門店を開業します。
装飾が施されている華やかなデザインの帽子が主流であった時代の中で、無駄のないシンプルなデザインの帽子は、当時珍しかったこともあり、たちまちフランスの女性の間で評判を呼び、すぐに繁盛するようになります。
帽子店の成功をきっかけにブランドの規模の拡大を図り、1912年にはフランスの高級リゾート地のドーヴィルに、モードブティックをオープンしました。
1913年には、ジャージ素材を使用したスポーツウェアを考案します。
当時は男性の肌着に使われていたジャージ素材を、女性用ウェアに取り入れたことで、大きな話題となります。
そして、1915年にはビアリッツにクチュールハウスをオープンし、本格的にオートクチュールを展開していくことになります。
1916年、初となるオートクチュール・コレクションを開催します。
その際に発表されたシンプルで着心地の良いジャージ素材のドレスは、多くの女性が望んでいたコルセットからの解放を叶えてくれるスタイルであったことから、女性達に高く評価され、コレクションは大成功を収めることになります。
シャネルの歴史 第三章
シャネルNo.5を発表
1918年、カンボン通り31番地に新たなクチュールハウスを構えます。
ブティック、サロン、アトリエを備えたこのハウスは、現在もシャネルのオートクチュールの拠点としてこの場所に軒を連ねています。
1921年、シャネル初の香水「シャネルNo.5」を発表します。
5と言う数字は、シャネル氏がこれまでの生活において関わりが多い数字だったことから、以前から幸運の数字として崇めていたと言われ、そのことから、香りを選ぶ際に、番号が振られていた試作品の中から、シャネル氏は5番と書かれた小瓶を選び、「この5番目の名前は運が良い名前だからそのまま使う」と言う経緯で香りが決定したと言われています。
「女性そのものを感じさせる、女性のための香り」と言うコンセプトの元で完成したNo.5は、当初はアメリカのニューヨーカーをターゲットにしており、アメリカで大々的な広告キャンペーンが打たれました。
その後は世界中で大ヒットを記録し、現在も世界で最も有名なフレグランスとして君臨しています。
さらに1922年、2つ目のフレグランス「シャネルNo.22」を発表します。
22とは、1922年にちなんで命名され、華やかなフローロルノートの香りは、現在も世界中の女性に支持を得ています。
シャネルの歴史 第四章
リトル・ブラック・ドレスを発表
1923年、シャネル氏は、ツイード生地を使用した女性用ウェアを発表します。
スコットランド発祥のツイード生地は、シャネル氏がウエストミンスター公爵と出会った際に、公爵が着用していたツイード素材のジャケットを借りて着ていたことが、ツイード素材を採用したきっかけだったと言われ、シャネル氏は、女性用ウェアに初めてツイード素材を取り入れたと言われています。
1924年、フレグランスと化粧品の製造販売を担う「ソシエテ デ パルファン シャネル」を設立します。
同年、シャネル初の化粧品であるメークアップコレクションを発表し、今も大人気のリップスティックやフェイスパウダーが初めて発売されました。
1926年 新作ドレス「リトル・ブラック・ドレス」を発表します。
喪服のイメージが強かった黒一色のドレスに、モードのエッセンスを加えた丈の短い洗練されたドレスは、ブラックドレスのイメージを覆したことで、シャネルの最高傑作とも称されています。
1927年、メークアップコレクションに続いて、スキンケアラインを発表します。
スキンケアラインは、シャネル氏のヴィジョンが反映されており、15個のアイテムで構成されたトータルスキンケアが展開されました。
シャネルの歴史 第五章
マトラッセの誕生
1929年、女性用ショルダーバッグ「マトラッセ」を発表します。
当時、男性のみが使用していたショルダーバッグを、シャネル氏によって女性用らしい気品のあるデザインにアレンジしており、”マトラッセ”は、フランス語でキルティング素材と言う意味を持っています。
キルティング加工されたバッグに、高級感のあるチェーンが施されたマトラッセは、それ以来、シャネルのアイコンバッグとして、多くの女性を魅了しています。
1931年、ハリウッドの大物映画プロデューサーであるサミュエル・ゴールドウィンがシャネル氏に映画の衣装や、女優達の私服のデザインの担当を依頼し、シャネル氏は一時アメリカに渡ることになります。
シャネル氏は2年間の招聘を受け、ハリウッドで暮らしながら様々な映画の衣装を担当しました。
1932年、初のハイジュエリーコレクション「BIJOUX DE DIAMANTS(ダイヤモンド ジュエリー)」を発表します。
コレクションはシャネル氏の自邸で発表され、約45点のジュエリーがお披露目されました。
1939年、第二次世界大戦の勃発によって、店舗の閉店を余儀なくされてしまいます。
31番地のクチュールハウスだけは、かろうじて営業を続けましたが、オートクチュールやウェアの販売は行わず、香水やアクセサリーのみを販売していたと言います。
さらに、お針子全員を解雇し、シャネル氏もオートクチュールから身を引き、実質引退状態になってしまいます。
シャネルの歴史 第六章
ココ・シャネルが復帰
1952年、アメリカの女優マリリン・モンローが「シャネルNo.5」を愛用していることがライフ誌の取材で明らかになると、人気が落ち着いていたNo.5が再び大ブームとなり、世界的に知名度が上昇することになります。
1953年、長らく休業していたココ・シャネル氏がかつてのスタッフ達に「今すぐ来るように」と電報を打ち、ファッション界に復帰することを発表します。
1954年、シャネル氏は、71歳にしてブランドにカムバックし、オートクチュールのデザイナーとして完全復活を遂げます。
復帰後初のコレクションでは、シャネル氏の幸運の数字である”5″をあしらったジャージ素材のスタイルが登場し、業界からは高く評価されます。
1956年、ブレードを施したツイードのスーツをコレクションで発表します。
様々なシーンで活躍するツイードのスーツは、今ではシャネルの代名詞として定着しています。
1957年、つま先にブラックのレザーをあしらったバイカラーシューズを発表します。
バイカラーシューズは、シャネル氏が最初に考案したと言われており、洗練されたデザインだけでなく、脚を長く見せる効果もあることから、今でも多くの女性に支持を得ています。
1965年、ジャック・エリュ氏が、フレグランス&ビューティ部門のアーティスティックディレクターに就任します。
エリュ氏はその後ウォッチ&ファインジュエリー部門のディレクターや、アートディレクターにも就任しており、多くの広告や商品デザインも担当していました。
シャネルの歴史 第七章
新生シャネルの誕生
1971年、ココ・シャネル氏の生涯の幕が降ろされ、その後、シャネル氏による最後のコレクションが発表されると、大きな反響を集めます。
シャネル氏の亡き後はアシスタントデザイナーであったガストン・ベルテロ、ラモン・エスパルザなどによって、ブランドが引き継がれることになりますが、売り上げが伸びず、ブランドは低迷期を迎えてしまいます。
1983年、カール・ラガーフェルド氏がアーティスティックディレクターに就任します。
ラガーフェルド氏の再構築によって衰退していたシャネルが再び評価されるようになり、売り上げも増加するようになります。
1993年、ココ・シャネルが1932年にデザインしたコメットモチーフのネックレスを復刻し、シャネルファインジュエリーとして新たに登場しました。
1995年、新作ネイルエナメルのヴェルニ「ルージュ ヌワール」を発売します。
ココ・シャネルが気に入っていたカラーをイメージして誕生した、黒に近いレッドカラーのネイルエネメルは、シャネルのアイコンの1つとなっています。
2000年、シャネル初のスポーツウォッチ「J12」が誕生します。
ブラックセラミックを使用した美しいデザインのウォッチは、時計業界に革命をもたらしました。
シャネルの歴史 第八章
ヴィルジニー・ヴィアール氏が新デザイナーに
2001年 新作フレグランス「ココ マドモアゼル」を発表します。
自立した女性に向けたフレグランスで、オリエンタルアンバーウッディーの芳醇な香りを楽しめます。
2006年、リップスティック「ルージュ アリュール」を発売します。
ワンクリックでスティックが現れる革新的なパッケージが話題となり、ロングセラーを記録します。
2012年、東京の新宿御苑で、シャネルの春夏オートクチュールコレクションのショーが開催されました。
日本との繋がりを深めるために実施され、ブルーをメインカラーに様々なスタイルが登場し、話題を集めます。
2017年、新作フレグランス「ガブリエル シャネル」を発表します。
ガブリエル・シャネルにインスピレーションを受けて生まれたこの香水は、彼女が持つ情熱や自由を感じさせる香りとなっています。
2019年、30年間シャネルを率いてきたラガーフェルド氏が亡くなり、後任には、ラガーフェルド氏の右腕として、30年以上共にシャネルを支えてきたヴィルジニー・ヴィアール氏が就任しました。
ヴィアール氏が単独で手掛けた初のプレタポルテコレクションでは、新たなシルエットのツイードジャケットや、ピンクやブルーなどの鮮やかなカラーを使ったアイテムが展開され、シャネルに新たな風を吹かせました。
まとめ
今回は、シャネルの歴史についてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?
ココ・シャネルは、舞台女優になると言う最初の夢は断念したものの、その後ファッションデザイナーとしてかつてない成功を収めた理由には、これまでに培ってきた多くの経験や人との出会いなどが大きく影響されているのはもちろんのこと、女性ならではの視点によって生まれる画期的で斬新なアイデアも、ブランドが急激に躍進を遂げた理由の1つでもあるのかもしれませんね。
これからも女性が憧れる永遠のラグジュアリーブランドとして、輝きを放ち続けることでしょう。