エルメスの歴史


フランス発の高級ファッションブランドとして、世界中のセレブから支持を得ている「エルメス(Hermès)」は、ラグジュアリーブランドの中でも格式高いイメージがあり、ブランドを代表するバッグであるバーキンやケリーバッグは、誰しも一度は憧れを抱いたことがあるかもしれません。



そんなエルメスの歴史の始まりは180年以上前に遡り、当初は馬車に使用する道具を専門的に手掛けていましたが、あるきっかけによって皮革製品の製造に移り変わっていき、ブランドを成功に導いていきます。



エルメスには、今も語り継がれている多くの逸話があり、あの人気バッグが開発された理由や伝説的なエピソードなど、様々な歴史の背景を知ることで、より一層ブランドへの理解が深まるかもしれません。



そこで今回は、ブランドの誕生から現在に至るまでの、エルメスの歴史をご紹介します。

エルメスの歴史 第一章
ティエリー・エルメス氏の誕生



1801年、ドイツ西部の都市「クレーフェルト」で、宿屋を営む父と母のもとにティエリー・エルメス氏が生まれます。



しかし、戦争や病気が原因でティエリー氏が15歳になる前に家族が全員亡くなり、孤児になってしまいます。



孤児となったティエリー氏は、その後フランス北部のノルマンディーに移り住むことになります。



当時、ヨーロッパの移動手段は馬車が主流であったことから、ティエリー氏は乗馬用のハーネスの製造に興味を持ち始め、ティエリー氏は制作技術を学び、職人の腕を磨いていきました。

エルメスの歴史 第二章
馬具工房をオープンさせる



馬具技術を習得したティエリー氏は、1837年、パリのランパール通りに高級馬具の工房を開きます。



エルメスのブランドロゴには四輪馬車と馬、そして従者が描かれているので、エルメスが元々馬具を販売していたことはご存知の方も多いかもしれませんが、実はロゴをよく見ると、馬車に乗る主人の姿が一切描かれていないことに気付くかもしれません。



これは、エルメスが「私たちは最高品質の場所を提供するが、それを御すのはお客様ご自身です」と言う信念があり、姿が見えない主人は、製品を使ってくれる購入者自身であると言うメッセージが込められています。



馬具工房では高級馬具と謳っている通り、見た目の美しさにこだわり、さらに上質な革を使用し、馬や人にもなじみやすく加工を施したりと、熟練の職人が1点1点丹精込めて仕上げた馬具は、機能性にも優れ、見た目もおしゃれなことから評判を集め、当時高く評価されていました。



そして1867年にエルメスは、パリ万国博覧会に鞍を出展をし、銀賞を受賞します。

エルメスの歴史 第三章
皇帝が認めたブランドに



高級馬具ブランドとして、フランス中に評判が知れ渡るようになると、当時、皇帝に即位していたナポレオン3世から注文が来るようになり、皇帝御用達ブランドとして名声を上げ、世界中に知名度を上げてきます。



1878年、創業者であったティエリー氏が亡くなり、2代目としてティエリー氏の息子であるシャルル・エミール・エルメス氏が就任します。



そして同年のパリ万国博覧会では、出展した鞍が金賞を獲得し、世界各国の上流階級の人々から注文が殺到するようになり、世界的ブランドへと発展していきます。



1880年、ランパール通りにある工房を、現在のエルメス本店の所在地であるパリ8区のフォーブル・サントノーレ通り24番地に移転をします。

エルメスの歴史 第四章
初のバッグ「オータクロア」を発表



順調に事業の拡大を続けていたエルメスですが、ここにきて最大の危機に陥ることになります。



それが、新たな交通手段である自動車の登場です。



科学の発達によって自動車が登場すると、急激な時代の変化に流され、馬具を専門的に販売していたエルメスは危機感を抱くことになります。



そこで3代目に就任したティエリー氏の孫にあたり、シャルル氏の息子であるエミール・モーリス・エルメス氏は、対策案として今まで培ってきた馬具製作の技術力を生かし、ファッション分野への進出を計画します。



そして1892年、ついにエルメス初となるバッグ「オータクロア」を発表します。



オータクロアは、職人が馬具作りの技術を生かし、高品質な皮革加工技術を用いて制作され、ケリーやバーキンの原型とも言われるバッグです。



当時、フランスではコットン素材のバッグが一般的だった為、革を使用したバッグは当時のファッション業界に衝撃が走ったと言われています。



また、オータクロアは、当初、馬具を収納する為のサドル・バッグとして制作されましたが、婦人用の旅行バッグとして利用する人が多く、女性向けのバッグに高い需要があることが判明すると、エルメスは本格的にファッションアイテムの開発に取り組むことになります。

エルメスの歴史 第五章
転換期を迎える



1900年、3代目であるエミール氏は、ロシアのサンクトペテルブルグを訪問し、ロシア皇帝のニコライ2世に馬具とバッグの売り込みに成功します。



20世紀初頭は、少しずつ自動車が普及しつつあったものの、馬具の需要はまだ僅かにあり、ロシアだけでなく南米や日本にもエルメスの馬具が輸出されていたと言われています。



しかし、馬車の衰退を予見していたエルメスは、事業の多様化が必要だと察知し、1902年には、バッグに加えて婦人用の財布を販売を開始します。



1920年には、ハンドバッグ部門を立ち上げ、ここから現在に続くファッションブランドとしてのエルメスの基盤ができあがります。



そして1923年、エルメスは新作のバッグ「ボリード」を発表します。



ボリードは世界で初めてファスナーを採用した革命的なバッグで、当時大きな話題を呼び、人気を博しました。



ファスナーを用いたバッグは、ファッション業界にも多大な影響を及ぼし、同じくラグジュアリーブランドとして知られる「シャネル(CHANEL)」は、ボリードに影響を受けてスカートに初めてファスナーを取り付けたと言うエピソードがあります。



その後も、ファッション事業の拡大を続け、時計や衣類、アクセサリーと言ったアイテムも次々に展開していきます。



1926年には、パリの本店で初のウインドウ・ディスプレイを開始します。



当時斬新だったと言われるディスプレイは「エルメス劇場」と呼ばれ、通り過ぎる人々から多くの注目を集めました。

エルメスの歴史 第六章
ケリーバッグ(サック・ア・フロア)が誕生



1935年には、新作バッグの「サック・ア・フロア」を発表します。



サック・ア・フロアは、1892年に初のバッグとして登場した「オータクロア」を少し小振りにしたバッグで、このバッグこそが、現在もエルメスを代表するバッグの1つであるケリーバッグです。

1937年には、現在もエルメスで大人気の商品であるスカーフが初めて発売されます。



第一号のスカーフは「オムニバスゲームと白い貴婦人」と言うデザインで、このスカーフは2007年に誕生から70周年を記念して復刻されています。



しかしその後、第二次世界大戦に突入し、景気が悪化するとエルメスも事業を縮小せざるを得なくなります。



戦時中は物資を手に入れるのも一苦労で、商品を包む包装紙ですら手に入らなかったと言います。



いつも使用していたベージュの包装紙が手に入らなくなると、たまたま余っていたオレンジ色の包装紙を使用することになります。



しかし、鮮やかなオレンジ色の包装紙は注目度満点で好評を博し、それ以降は正式に採用されることになります。



その後は今も有名な包装箱(オレンジ・ボックス)にも取り入れられ、エルメスのシンボルカラーとして愛されるようになりました。



1944年、エルメスで初の香水となる「オー・ドゥ・ヴィクトリア」を発表します。



1947年には、初の香水が好評を得たことにより、エルメスは香水部門を新設します。



1949年には、紳士用バッグの「サック・ア・デペッシュ」とシルクツイルのネクタイの発売が開始され、男性に向けた商品の展開も本格的にスタートします。

エルメスの歴史 第七章
モナコ王妃が愛用し話題に



1951年、エルメスの4代目社長として、エミール氏の義理の息子であるロベール・デュマ・エルメス氏が就任します。



ロベール氏は、スカーフと香水に力を注ぎ、スカーフに「カレ・エルメス」と言う名前を与えて芸術性を盛り込み、シルクスクリープリントもこの時代から始まりました。



1956年、女優であり、後にモナコ王妃となったグレース・ケリーが「サック・ア・フロア」を愛用し、話題となります。



グレースは、妊娠中の際に、お腹をパパラッチに撮られない為にサック・ア・フロアで隠したと言う有名なエピソードがあり、それを知った社長は、このバッグを「ケリー」と名付け、それ以降エルメスのアイコンバッグとして親しまれるようになります。



1961年、今も根強い人気を誇る香水「カレーシュ」の発売を開始します。



“カレーシュ”とは、女性が乗る優雅な四輪馬車の名から命名されました。



1969年には、ストラップが調節可能で様々シーンに対応したバッグ「コンスタンス」を発表します。



このバッグは、ケネディー大統領夫人として知られるジャクリーヌ・ケネディ氏も愛用していました。

エルメスの歴史 第八章
日本初上陸&バーキン誕生



1978年、ロベール氏の息子であるジャン=ルイ・デュマ・エルメス氏が5代目社長として就任します。



そして、1978年に東京の丸の内に日本初となるエルメスのブティックがオープンします。



それ以前は、銀座のサンモトヤマが1960年頃より輸入販売を行っていましたが、直営店がオープンしたことによって、さらに日本でエルメスと言うブランドが知れ渡るようになります。



1979年には、今も人気を得ている腕時計「アルソー」を発表し、これと同時に時計部門を新設します。



さらに1984年には、テーブルウェア部門を立ち上げるなど、ファッションだけにとどまらず、幅広い分野に進出していきます。



そして同年の1984年、エルメスを代表するバッグとして有名な「バーキン」がついに発売されます。



バーキンが誕生した経緯には、当時の社長であるジャンルイ氏が飛行機の機内で隣り合わせになったある女性がきっかけであり、女性が通路を横切る際によろけてしまい、持っていたかごバッグの中身を落としてしまうのをジャン=ルイ氏が目撃します。



その際に、ジャン=ルイ氏は、「ポケットがいくつか付いたバッグを使ったほうがいいですよ」と助言します。



女性は母親になったばかりで「エルメスでいつか自分のニーズを満たすバッグが出ればいいのに」と思わずこぼしてしまいました。



そこでジャン=ルイ氏は自分がエルメスの者であることを伝え、ジャン=ルイ氏は、すかさず席にあったエチケット袋にデザインをスケッチし始めます。



ジャン=ルイ氏は「オータクロア」のバッグをイメージし、収納力があり、しなやかな長方形のフォルムのバッグをスケッチし、完成したバッグを後日、その女性に贈りました。



その女性の正体は、なんとイギリスの女優で歌手でもあるジェーン・バーキンで、彼女の為に特別に作られたバッグでしたが、やがて「バーキン」と言う名で発売されるようになり、現在も希少性の高い特別なバッグとして親しまれています。

エルメスの歴史 第九章
カジュアルラインの登場



1987年、エルメスは創立150周年を迎え、それを記念してセーヌ河では特別な花火が打ち上がり、多くの話題を集めました。

そして、この年から毎年テーマが決められるようになり、最初は花火の催しがあったこともあり「花火」がテーマとなりました。



1998年、新作バッグの「フールトゥ」、「エールライン」が発売されます。



これまで、高価格帯の製品が多いエルメスでしたが、この2つのバッグは価格もお手ごろなカジュアルラインで学生にも手に入りやすいことから、若い女性を中心にヒットを飛ばし、エールラインは現在絶版となっていますが、フールトゥは今も根強い人気があります。



また、これらのバッグは、当初はコットンキャンバス生地で作られていましたが、後にトワルアッシュという素材で作られるようになります。



2001年、銀座の数寄屋橋交差点近くに、旗艦店となる「メゾンエルメス」がオープンします。



イタリア人建築家のレンゾ・ピアノ氏が手掛けたガラスブロックで覆われた11階建ての建物は、一際存在感を放っており、建物の中には売り場だけでなくエルメスジャポンの本社が入居しており、さらに一般の人も利用可能なギャラリーやミニシアターも常設されています。



現在、日本でのエルメスの売上は、アメリカ、フランスに次ぐと言われ、世界全体の売り上げの13%を占めています。



多くの日本人を虜にしているエルメスは、今後もラグジュアリーブランドのトップとして駆け抜けていくことでしょう。

まとめ



今回はエルメスの歴史をご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか?



時代の移り変わりが激しい中で存続の危機に陥りながらも、多くのアイデアを打ち出して時代の波に乗り続け、今では誰もが知る一流ブランドになったエルメスは、馬具制作の時代から受け継がれている職人の技術や伝統を守りながら、これからも私たちに最高峰の製品を提供し続けることでしょう。

brareslab@admin

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