ジミーチュウの歴史

イギリス発のファッションブランド「ジミーチュウ(JIMMY CHOO)」は、世界a中のセレブリティから絶大な支持を得ていることで有名なラグジュアリーブランドです。


ジミーチュウでは、バッグや財布、サングラスなど様々なアイテムを展開していますが、ジミーチュウと聞いてまずイメージするは”シューズ”かもしれません。

ジミーチュウのシューズは、女性の足元を美しく魅せてくれるのはもちろんのこと、その上フィット感も素晴らしく、高いヒールにも関わらず疲れにくいことから”魔法の靴”と呼ばれています。

さらに、他には無いエレガントで洗練されたデザインも人気の秘密で、今ではフェラガモやクリスチャン・ルブタンと肩を並べる、女性の憧れの高級シューズブランドとして愛されています。

そんなジミーチュウは、1996年に創業した比較的新しいブランドでもありますが、ジミーチュウが21世紀を代表するシューズブランドとして不動の人気を築き上げるまでの間には、数多くの知られざる歴史があります。

ブランド設立までの経緯や、多くのセレブから愛されるようになったきっかけなど、歴史を知ることで、ジミーチュウが今も多くの人を魅了している理由が分かるかもしれません。

そこで今回は、創業者の誕生から現在までのジミーチュウの歴史についてご紹介します。

ジミーチュウの歴史 第一章
ジミーチュウ氏の誕生



「ジミーチュウ(JIMMY CHOO)」の創業者の一人であるジミーチュウ氏は、1954年11月15日、マレーシアで生まれました。

ジミーチュウ氏は客家と呼ばれる、中国南部に住む漢民族の家系出身で、父は靴職人でもあったことから、ジミー氏は、幼少期の頃から工房で靴の制作風景を間近で見ており、手伝いもしていたと言われています。

成長するにつれて靴作りに興味を持つようになったジミー氏は、父から靴職人に必要になる知識や技術を一から直々に教わり、11歳の頃には母の為に初めてのパンプスを制作することになります。

ジミー氏の父は厳格で、ジミー氏が当時を振り返った際に、初めて靴を制作した際には完成するまで何度も父に厳しく指導されたと話しており、完璧な靴ができるまで満足してくれなかったそうです。

しかし、その父の厳しさが無かったら今の「ジミーチュウ」は存在していなかったかもしれないと語っています。

そんな父のような靴職人になることを志したジミー氏はその後ロンドンに渡り、ロンドン芸術大学ファッション科に入学し、ファッションや靴作りについて基礎から学んでいきました。

ジミーチュウの歴史 第二章
アトリエを立ち上げる



大学を卒業したジミー氏は、ロンドン特別区の一つであるハックニーに念願の工房を構え、靴職人として活動をスタートします。

これまでに培ってきた腕前を活かした渾身のシューズは、一部で評判を得たものの、経営についての知識がほとんど無かったため、中々軌道に乗せることができなかったと言います。

そんなある日、”靴のロールス・​ロイス”や”靴の王様”とも呼ばれる、ラグジュアリーシューズブランドの「マノロ・ブラニク(Manolo Blahnik)」が、世界で最も影響力のあるファッション雑誌である「ヴォーグ(Vogue)」に掲載するシューズを制作する職人を募集し、なんとジミーチュウが抜擢されることになります。

世界的に有名なファッション雑誌にジミー氏が手掛けたシューズが掲載されると、瞬く間に知名度が上昇し、ジミー氏の工房にも沢山のお客が詰めかけるようになり、ここから少しずつ軌道に乗りはじめることになります。

ジミー氏が制作するシューズは、デザインの美しさだけでなく、履き心地も非常に良く、尚且つ機能性も兼ね備えていることから次第に「魔法の靴」と呼ばれるようになり、イギリスの上流階級の女性の間でトレンドを巻き起こし、ジミー氏の靴職人としての才能の高さがイギリス中に浸透していくことになります。

ジミーチュウの歴史 第三章
ブランドが創業



ジミーが手掛けるシューズは、その後も数多くのファッション雑誌に掲載されるようになり、ジミーは靴職人としてさらに磨きをかけていき、高品質なシューズを次々に制作していきます。

そんな中、ジミー氏のシューズの評判はついにイギリス王室まで届くようになり、ダイアナ皇太子妃からカスタムメイドのシューズのオーダーを依頼されることになります。

その後、ジミー氏はイギリス王室御用達の靴職人として、度々オーダーを受けていたそうです。

そしてこの後に、ジミー氏にとって運命的な出会いが訪れることになります。

ジミー氏が展開していたコレクションがあるファッション誌の編集長の目に止まり、惚れ込んでいると言う情報が入ります。

その人は、ヴォーグイギリスの編集長のタマラ・メロンと言う女性です。

ヴィダルサスーンの創業者の一人である父と、元モデルである母の間に生まれたタマラ氏は、幼い頃からファッションには人一倍敏感だったと言いますが、ジミー氏のシューズを初めてみたときはあまりの美しさと履き心地に衝撃を受けたと話しており、タマラ氏はジミー氏のシューズをもっと世に広めたいと言う思いから、共同でブランドを設立しないかとジミー氏に尋ねてきます。

こうして、1996年にタマラ氏とジミー氏は共同でブランド「ジミーチュウ(JIMMY CHOO)」を創業することになり、創業時は、ジミー氏とタマラの父のトム・イヤーダイが株式を半分ずつ所有していました。

また、靴職人志望でジミーの工房で靴作りについて学んでいた、ジミー氏の一番弟子と言われるサンドラ・チョイ氏がクリエイティブ・ディレクターとして就任しました。

ジミーチュウの歴史 第四章
米人気ドラマで取り上げられる



「ジミーチュウ」の初の店舗は、ロンドン・ベルグレイヴィア地区のモットクーム・ストリートにオープンしました。



その2年後には、アメリカやフランス、イタリアに進出を果たし、さらに東京の銀座にもオープンし、世界の様々な主要都市に出店を続けていきます。


また、セレブリティにブランドを認知してもらう為に、アカデミー賞授賞式に真っ白なジミーチュウのシューズを大量に持参し、女優が着用するドレスに合った色に染めると言うサービスを行うと、ジミーチュウのシューズを履いてレッドカーペットを歩く多くの女優に注目が集まり、認知アップPRは大成功を果たします。

今では多くのセレブリティに愛されているジミーチュウですが、セレブ御用達シューズとして定着するようになった理由はこのPRもひとつのきっかけとなったのかもしれません。

さらに1998年には、社会現象となった米人気ドラマ「SEX and the city」でジミーチュウのシューズが大々的に取り上げられ、主演のサラ・ジェシカ・パーカーが発した「I lost my choo(チュウをなくしたわ)」と言うセリフは、ドラマ内での有名なセリフとして知られています。

他にも様々な映画やドラマにもジミーチュウのシューズが使われるようになり、ラグジュアリーシューズブランドとして世界中に知れ渡るようになります。

ジミーチュウの歴史 第五章
ジミー氏がブランドを離れる



世界的ブランドに躍進するまでに成長していったジミーチュウでしたが、2001年にジミー氏が所有していた株を全て売却し、ブランドから立ち去ることになってしまいます。

これまで通りに顧客に向けた高級仕立靴を制作していきたいと言う思いが強いジミー氏と、利益を上げることを最優先し、大量生産をするプレタポルテ(高級既製品)を中心に展開していきたいタマラ氏との間に確執が生まれたことが原因とされており、ジミー氏はブランドから離れてしまうことになりますが、その後もロンドンでオートクチュールのシューズを作り続けることになります。

その後は、タマラ氏が舵をとり、新生ジミーチュウがスタートすることになりますが、ブランドの質の低下が懸念される中で、今日まで質を維持し続けて来れたのは、クリエイティブ・ディレクターのサンドラ・チョイ氏の存在が大きいとされています。

サンドラ氏は、ブランド創業当初からプレタラインのデザインを手掛けており、デザインセンスはジミー氏以上とも称され、さらに、ジミー氏から直々に学んだ靴作りの腕前も素晴らしく、サンドラ氏が手掛けたシューズは飛ぶように売れるようになります。

現在も、ブランドで販売されている全てのラインはサンドラ氏がデザインしており、今も昔もジミーチュウに欠かすことのできない人物です。

ジミーチュウの歴史 第六章
総合ファッションブランドに拡大



これまで、「ジミーチュウ」はハイヒールやパンプスを専門的に販売していましたが、2001年には、初となるブーツが発売されます。



さらに2003年に初のバッグラインであるハンドバッグが登場しす。

この時期には、現在もブランドのアイコンとなっている「スタッズ(Studs)」が世界的にトレンドを巻き起こし、シューズやバッグなど様々なアイテムに取り入れられるようになりました。

その後も、財布、香水、サングラスの展開もスタートし、アイテムのバリエーションを広げていきます。

2007年には、米国投資会社のタワーブルック・ キャピタル・パートナーズに買収されることになります。

タマラ氏は、”この買収は、最初に私が抱いた世界で最もラグジュアリーなブランドにすると言うヴィジョンを達成する為でもある”と話しています。

2008年には、ジミーチュウが英国のデザイナー・ブランド・オブ・ザ・イヤーに輝き、さらに、ニューヨークのフットウエア・ニュースが発表するブランド・オブ・ザ・イヤーも受賞し、ファッション業界からも高い評価を得るブランドとして、さらに躍進していきます。

ジミーチュウの歴史 第七章
マイケルコースの傘下ブランドに



2009年、アートやデザインへの進学を志す学生を対象にした、世界唯一の芸術専科の寄宿制スクールであるロンドン国際芸術高校が設立され、名誉校長としてジミーチュウ氏が就任します。

2011年には、2度目となる買収が行われることになります。

買収元企業は、ウィーンを拠点に様々なファッションブランドを展開している「ラベルクス・グループ」で、正式な買収額は公表されていないものの、憶測では730億円だと言われています。

ラベルクス・グループによって買収された直後に、1996年から約15年もの間、ブランドを支えてきたタマラ氏がブランドから退くことになります。


これによって創業者の2人がブランドから離れることになりますが、引き続きサンドラ・チョイ氏が牽引して、ブランドのさらなる発展を目指し、精力的に取り組んで行きます。

2012年、最高経営責任者としてピエール・ドゥニを招き入れます。

2014年には、ロンドン証券取引所にて「CHOO」と言う、取引銘柄で上場を果たします。

ロンドン証券取引所に上場してから3年後の2017年、ジミーチュウが身売りを検討していることが明らかになり、身売りの理由は戦略の見直しの一環であり、株主の為にブランドバリューを最大化したいと説明しました。

そして2017年7月、世界的に有名なアメリカのファッションブランド「マイケル・コース(Michael Kors)」が、1295億でジミーチュウを買収することが発表されます。

米大手ブランドの傘下となったジミーチュウは、現在世界各国に出店している150店舗に加えて、さらなる新規店舗のオープンやオンライン事業の発展を目指す意向を明らかにし、事業の拡大に努めていくことになります。

2019年 ジミーチュウは、新しいロゴマークを発表しました。

“JCロゴ”と呼ばれる新しいブランドのアイコンは、絡ませた”JC”を多面的にカットしたデザインが特徴的で、新しいロゴの誕生を記念し、2019年秋冬コレクションからJCロゴをあしらった「JC COLLECTION」がデビューしました。

まとめ



今回は、ジミーチュウの歴史についてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?



わずか20年弱で世界中にファンを持つグローバルブランドとして成長を遂げていったジミーチュウは、早々と創業者が立ち去ったり、何度も買収劇が繰り広げられたりと激動の歴史がありましたが、品質の高さは創業時と変わらず今も健在で、現在も、ラグジュアリーシューズブランドのトップを走り続けています。

“魔法の靴”と呼ばれるように、ジミーチュウのシューズは人を引き付ける様々な魅力があり、一度履いてみると虜になってしまうこと間違いありません。

今後も、ますます進化を遂げ続けるジミーチュウに注目していきましょう。

brareslab@admin

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