ディオールの歴史



フランスのラグジュアリーブランド「ディオール(DIOR)」は、言わずと知れたファッションデザイナー、クリスチャン・ディオール氏によって設立されたブランドです。



オートクチュールから革製品、アパレル、時計、香水など、様々なジャンルのアイテムを展開し、1946年の創業以来、世界中の人々を魅了しています。



ディオールは創業当初からファッション業界に数々の衝撃を与え、ニュールックと呼ばれたスタイルは、これまでのファッションの固定概念を覆したことで今もなお語り継がれていますが、クリスチャン・ディオール氏がブランドに携わっていたのは、創業から亡くなるまでのわずか12年間のみで、その後は、イヴ・サンローラン氏を皮切りに、才能豊かなデザイナーが次々に就任をしており、創業から現在までの70年以上の間には、波乱万丈の歴史が多くあります。

今回は、クリスチャン・ディオール氏の誕生から現在までの、ディオールの歴史についてご紹介します。

ディオールの歴史 第一章
創業者クリスチャン・ディオール氏の誕生



1905年、創業者であるクリスチャン・ディオール氏が誕生します。



フランス北西部ノルマンディー地方のマンシュ県・グランヴィルの裕福な家庭に生まれたディオール氏は、リュンブの家と呼ばれるピンクとグレーの外壁の美しい別荘で幼少期を過ごします。



田園に囲まれたのどかな環境の中で、花や植物、虫と言った自然の物に夢中になっていたディオール氏は、生涯にわたり、このときに過ごした経験がブランドのルーツの1つとなっており、後に設立するブランドでは、自然のモチーフが多く取り入れられるようになります。



ディオール氏が5歳になると、一家でパリに移住をします。



移り住んだパリ16区のアパートでは、母親がルイ16世様式の内装に改装を行います。



ルイ16世様式とは、18世紀後期にフランスで流行したスタイルで、華やかな装飾で曲線を多用するロココ様式とは対照的に、直線が多く、装飾が控えめなデザインが特徴で、ディオール氏はこの内装から多くのインスピレーションを見いだしたとされており、後の「ディオール」ではこの内装が新たな解釈で表現されることになります。



ディオール氏は、パリで様々な芸術や建築に触れるうちに次第に建築家を志すようになり、装飾芸術を勉強し始めますが、彼の両親は外交官になることを望んでおり、1920年にディオール氏をパリ政治学院に入学させます。

ディオールの歴史 第二章
友人とアートギャラリーをオープン



政治学院に入学したものの、ディオール氏は政治の勉強は勤しまず、人間関係の構築を積極的に行っていたと言われています。



芸術に高い関心を持っていたディオール氏は、次第に芸術関係の友人が多くできるようになり、芸術界との関係を持つようになります。



1928年にディオール氏は、父に出資をしてもらい、パリ8区に友人と共に現代美術を扱う小さなアートギャラリーを立ち上げます。



親しい友人の1人であるアートディーラーのジャック・ボンジャン氏と提携して自分と同世代の新進気鋭のアーティストを紹介し、年に数回開催される展覧会では、毎回高い評価を集め、このギャラリーから多くのアーティストが巣立っていったと言われています。



しかしその3年後、世界恐慌によってアートギャラリーも経営破綻し、閉鎖に追い込まれてしまいます。



父の資産が失われたことによって住居も失ってしまいますが、ディオール氏の親しい友人達が手を差し伸べ、ディオール氏に寝る場所や食事を提供してあげていたと言います。

そして不幸はさらに連鎖し、ディオール氏は結核を患ってしまい、病に倒れてしまうことになります。

ディオール氏は、物価が安めのスペインのイビザ島に一時的に移住をし、1年間療養をしました。

ディオールの歴史 第三章
服飾デザイナーを志す



症状が無事に回復し、1938年に再びパリに戻ってくると、友人からファッションの職に就いてみてはどうかとアドバイスをされます。



建築家志望だったディオール氏でしたが、友人からデッサンを教わるようになったことでデザイナーにも興味を持つようになりここから本格的に服飾デザイナーを志すようになります。



そして、ディオール氏はロベール・ピゲと言うスイス人のファッションデザイナーのオートクチュールメゾンで働くことになります。



しかし、その一年後の1939年の第二次世界大戦の勃発によってディオール氏が徴兵され、やむを得ずロベール氏のメゾンから離れることになります。



1年の兵役を務めた後、ディオール氏は妹のカトリーヌが住んでいる南フランスのニースに避難し、約2年間滞在をします。



ニースでは、プレス向けのファッションデッサンなどを描く仕事をしており、他にも家族を養うために野菜や果物を栽培していたと言います。



1942年、ディオール氏は再びパリに戻り、すぐにデザイナーとして働くようになると、リュシアン・ルロン氏のファッションメゾンに加わることになります。

ルロン氏はディオール氏の才能を認めており、ルロン氏のアシスタントデザイナーに抜擢されたディオール氏は、ここで様々な経験を積んでいきます。

ディオールの歴史 第四章
ディオールの創業



ディオール氏と共にルロン氏のメゾンで働いてきたピエール・バルマン氏が、独立をして自身のブランドを立ち上げると、次第にディオール氏も独立をしたいと言う思いが強まっていきます。



そんな最中、フランスの大富豪で実業家であるマルセル・ブサック氏が、投資として新たなデザイナーを探していることを友人から聞きつけたディオール氏は、当時無名だったものの、ブサック氏と直接面談するチャンスを得ます。



ディオール氏は、ブサック氏に自身のファッションについてや今後のファッショントレンドを熱く説明したところ、ブサック氏はディオール氏の才能を見抜き、彼に投資をすることを決断します。



そして1946年12月16日、ブサック氏の援助によって、自身のオートクチュールメゾンをパリ8区アヴェニュー・モンテーニュ30番地に創業します。



店内にはシャンデリアや金のイスなど豪華絢爛な装飾が施されており、オープン時には多くのパリ市民が詰めかけたと言われています。



その2ヶ月後の1947年2月には、ディオールの最初のコレクションを発表します。

コロール(花冠)と名付けられたコレクションでは、ウエストを細く絞った女性らしい優雅なデザインのロング丈のフレアスカートを発表し、当時パリで流行していたクールな雰囲気の角ばったデザインのスタイルを真っ向から否定したことから、戦争によって贅沢が失われ、ファッションに飢えていた多くの女性達を虜にします。



ディオール氏のデビューとなったコレクションはフランスのみならず、世界中のファッション業界に衝撃を与えたと言われ、ニューヨークの世界最古の女性ファッション誌で知られる「ハーパース・バザー」の当時の編集長であったカーメル・スノウは、コロールコレクションを評した際に「これはニュールックだ!」と発言し、それ以来、このコレクションはニュールックと言う呼び名で浸透することになります。

ディオールの歴史 第五章
香水部門を立ち上げ



1947年、ディオールがアメリカの「オスカー・ドゥ・ラ・クチュール」を受賞し、ディオール氏は賞を受けとる為にアメリカに渡ります。



当時からアメリカでは既にディオールが認知されており、来日時には温かい歓迎を受けることになります。

1948年には、香水部門である「パルファン・クリスチャン・ディオール」を立ち上げます。



フレグランスの展開に至った経緯には、「女性を演出するには、相応しい香水が必要」と言う思考があったとされ、厳選した材料を使用し、香りの変化にこだわったディオールの香水は、現在もブランドを代表する製品の1つとして多くの人々を魅了しています。



ディオールは、ニュールックを皮切りに、その後も毎シーズン、テーマを変えたコレクションを次々に発表していきますが、どれも当時のファッションの固定概念を覆す内容だったことから、一部の業界からは批判が飛んでくることもありました。

アシンメトリーを用いた躍動感のある「ジグザグライン」や、長円形のシルエットが特徴的な「オーバルライン」の他にも、今ではファッション用語として定着した、上半身にボリュームを持たせた”Yライン”や、裾が広がっているシルエットの”Aライン”は、ディオールが最初に発表をしたと言われており、これまで誰も考えつかなかったような、斬新なシルエットのスタイルを次々に打ち出していきます。

さらに、ディオールのコレクションが高く評価された理由には、デザインだけではありません。



戦後間もない頃で、資材不足によって1着当たりに使用できる素材が制限されていた時代の中で、シルクやサテンと言った高級な素材を贅沢に使用していたことから、多くの上流階級の女性を魅了していたと言います。

ディオールの歴史 第六章
新生ディオールの誕生



ディオールは、フランスを代表するオートクチュールメゾンとして頂点に上り詰め、ディオール氏はファッション界のゼネラル・モーターズと呼ばれるようになります。

そんな中、ディオール氏は自身が引退をした際に、ブランドを受け継ぐ後継者の育成を開始し、1954年に、21歳の若きデザイナーであるイヴ・サンローラン氏を後継者の候補として迎え入れることになります。



その3年後の1957年、休暇で訪れていたイタリアのモンテカティーニ・テルメでクリスチャン・ディオール氏が急死し、突然の訃報にファッション業界や多くのディオール愛好者に衝撃を与えました。

創業からわずか12年で創業者が去ってしまい、ブランド存続の危機に直面しますが、この危機を救うことになるのが、後継者の候補としてディオール氏の下で働いていたイヴ・サンローラン氏です。

サンローラン氏が新たにディオールの主任デザイナーに就任することになり、弱冠21歳にしてディオール氏の後を継ぐことになります。



1958年、サンローラン氏による新生ディオールがスタートし、初となるコレクション「トラペーズライン」を発表します。



裾に向かうにつれて広がりを持たせたデザインは、ディオール氏が築き上げてきたスタイルや伝統をしっかりと承継しており、当時は無名でありながらもサンローラン氏の才能が存分に発揮されているこのコレクションは、業界からも高く評価されることになり、フランスの新聞では「彼はディオールを救い、これからもディオールの伝統が続くことになるだろう」と、絶賛しました。

サンローラン氏は重圧に耐えながらも、無事にデビューコレクションを成功に収めますが、その後に発表したコレクションはディオールらしからぬデザインだったこともあり、不評となってしまいます。

ディオールの歴史 第七章
低迷期に突入



1960年、サンローラン氏がフランス軍に徴兵されることになり、主任デザイナーを辞任します。



後任には、ディオール氏が存命中に育成をし、ニューヨークのスタジオの責任者を任せていたマルク・ボアン氏が務めることになり、ボアン氏が最初のコレクションで発表した「スリムルック」は、細身のジャケットにスリムなシルエットのスカートで合わせた、「Iライン」を考案し、ヨーロッパだけでなくアメリカなど世界中で大きな反響を集めることになります。

その後も、オートクチュール組合が選出するデ・ドール賞を2度も受賞するなど、順風満帆に思えたディオールでしたが、時代の移り変わりによって古典的な女性らしいスタイルが廃れ始めるようになり、売り上げも低迷してしまいます。

そんな衰退するディオールを救うべく立ち上がったのが、ルイ・ヴィトンを筆頭に数多くのラグジュアリーブランドを保有している、モエ・ヘネシー社(現LVMH)です。



1968年にディオールは、モエ・ヘネシー社に買収されることになり、傘下に入ることになりました。



しかし、その10年後の1978年には、親会社のマルセル・ブサック・グループが倒産してしまい、創業時から支えてくれていた重要なスポンサーを失ってしまいますが、流通大手のウィロ兄弟によって救済が入り、アガッシュ=ウィログループに入ることになります。

ディオールの歴史 第八章
レディ ディオールの誕生



1989年、ディオールは新たにジャンフランコ・フェレ氏を主任デザイナーに招き入れます。



イタリアを代表するファッションデザイナーの1人であるジャンフランコ氏は、ニュールックを再解釈したスタイルを打ち出し、今までの伝統に加えて全く新しい世界観を作り上げ、ディオールを再び軌道に戻しました。



1994年には、新作バッグ「レディ ディオール」を発表します。



今ではディオールのアイコンバッグとして有名ですが、元々はカナージュ・キュイール(格子の革)と言う名称で発売されており、レディ ディオールと言う名が付いたのは、翌年にイギリスのダイアナ妃が愛用したことがきっかけで命名されました。

1996年、ジョン・ガリアーノ氏が主任デザイナーに就任します。

2001年、メンズウェアライン「ディオール オム」がスタートし、エディ・スリマン氏がアーティスティック ディレクターに就任します。

ディオールの歴史 第九章
初の女性主任デザイナーの誕生



2011年、15年に渡ってデザイナーを担当したガリアーノ氏が辞任し、後任にラフ・シモンズ氏が就任します。



2016年、ラフ・シモンズ氏が自身のブランドに専念する為辞任し、後任にマリア・グラツィア・キウリ氏が就任します。



ディオール初の女性主任デザイナーとなったマリア氏のコレクションは、女性らしいロマンティックな要素も取り入れ、新たなディオールの誕生に多くの反響が寄せられました。

2018年、キム・ジョーンズ氏がメンズラインのアーティスティック ディレクターに就任します。

ルイ・ヴィトンのデザイナーとしても有名なジョーンズ氏は、歴史的なモチーフをモダンにアレンジしたデザインなど、ディオール氏の解釈を多く取り入れつつも、自身が得意なストリート系のスタイルも次々に打ち出し、今後もジョーンズ氏が手掛ける新生ディオールに期待が集まります。

まとめ



今回は、ディオールの歴史についてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?



戦後直後と言う激動の時代に衝撃的なデビューを飾り、12年と言う短い間の中で数多くのスタイルを生み出したディオール氏の功績は、フランスのみならず世界中に大きな影響を与えたことは言うまでもなく、デザイナーが次々に交代していく中でも、ディオール氏の意志を引き継ぎながら進化を続けており、これからもフランスを代表するファッションブランドとして、多くの人々を魅了していくことでしょう。

brareslab@admin

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