バレンシアガの歴史

「バレンシアガ(Balenciaga)」は、1917年にスペインで創業した、ラグジュアリーファッションブランドです。


バレンシアガでは、バッグやシューズ、ジュエリー、さらに香水まで、バリエーション豊富なアイテムを展開し、近年ではストリート系のアイテムにも力を注いでいることから、若者の愛用者も急激に増加しています。

現在はフランス・パリを本拠地に、世界中に店舗を構える大人気ブランドへ華々しく成長を遂げましたが、元々は小さな工房でオーダーを受けてアイテムを制作する”オートクチュール”から全てが始まったと言うことは、ご存知ない方も多いかもしれません。

脚光を浴びるまでの長い道のりの間には、ブランドの存続危機に直面することもあったりと数々の困難を乗り越えてきており、知られざる数多くの歴史がありました。

そこで今回は、知ればもっと好きになる事間違いなしの、バレンシアガの歴史についてご紹介します。

バレンシアガの歴史 第一章
クリストバル・バレンシアガ氏の誕生



バレンシアガの歴史の始まりは、19世紀末にまで遡ります。

1895年1月21日、バレンシアガの創業者である、クリストバル・バレンシアガ氏が誕生します。

クリストバル氏は、スペイン・バスク地方の漁村であるギプスコア県ゲタリアで、漁師の父親と裁縫師の母親の間に生まれ、幼い頃から裁縫の作業をする母を間近で見てきたクリストバル氏は、母親の影響で洋裁の世界に興味を持ち始めると、母から仕立てを一から学び、その後は独学で裁断と縫製について学ぶようになります。

12歳のときには、洋裁師見習いとして働くようになり、働きながら洋裁技術を磨き上げていきました。

次第にクリストバル氏の仕立ての技術の高さが評価されるようになり、評判が広まるにつれて高貴の身分の人々にも知られるようになります。

中でも地元でも有名な貴族であるカーサ・トーレス伯爵夫人は、クリストバル氏の才能や技術力に強い関心を示し、パトロンとなって支援をしてくれることになります。

そして、伯爵夫人はクリストバル氏がさらに上達できるように、マドリードにある仕立て屋にクリストバル氏を送り込み、修行を積ませます。

伯爵夫人のサポートによって、最高の環境の場で修行を受ける機会を与えらえたクリストバル氏は、このときは弱冠14歳で、クリストバル氏は伯爵夫人に感謝をしつつ、さらに高い知識や技術を磨いていくことになります。

バレンシアガの歴史 第二章
ブティックを開店



1913年、マドリードでの修行を終えたクリストバル氏は、バスク州ギプスコア県サン・セバスティアンの服飾店で働くようになり、後にアトリエの主任となります。

そして、1917年に伯爵夫人の資金援助によって、サン・セバスティアンに念願の自身のブティックを開店させ、バレンシアガのブランドが正式に創業することになります。

ブティックは「オートクチュールメゾン」とも呼ばれ、顧客の注文に応じて1点1点丁寧に作り上げていくオーダーメイドシステムで、クリストバル氏はデザイン画から型紙、ソーイングまで全ての工程を一人で行うことが可能なことから、休む間もなくひたすら働き続けたと言います。

同年には、オート​クチュールの本場であるフランス・パリのオートクチュール・コレクションに初めて出展し、クリストバル氏はフランスのデザイナーと様々な交流を持つようになります。

バレンシアガの評判がスペイン各地にも知られるようになると、早くもスペイン王室からオーダーが舞い込むようになり、王室御用達ブランドとして箔がつくことになります。

さらに1933年にはマドリード、そして1935年にはバルセロナに新しい店舗がオープンし、スペインを代表するオートクチュールブランドとして順調に駆け上がっていきます。

バレンシアガの歴史 第三章
パリに移転



次々に新店舗を開店し、順風満帆に思えたバレンシアガでしたが、1936年にスペイン内戦が勃発し、経済にも大打撃を受けると、全店舗の閉鎖を余儀なくされてしまいます。

経営危機に見舞われるも、クリストバル氏はパリに移転をして事業を続けることを決意し、翌年の1937年にフランス・パリのジョルジュ・サンク大通り10番地に、新たなオートクチュール・メゾンを開店させ、ここからフランスを本拠地として新たなスタートを切ることになります。

パリに移転してから初となるパリ・コレクションでは、既製服を扱ったプレタポルテコレクションに初参加します。

当時最先端のトレンドデザインをふんだんに取り入れたことによって、顧客だけでなく業界人からも大きな注目を集めることになり、フランスの上流階級にもその名が知れ渡るようになります。

飛躍を続けるバレンシアガはここに来て事業をさらに拡大し、フレグランス(香水)部門を新たに立ち上げることになります。

そして1947年に初のフレグランスである「Le Dix」が登場し、翌1948年には2つ目のフレグランスとなる「La Fuite des Heures」が発売されます。

バレンシアガが自信をもって売り出したこれらのフレグランスは、後にブランドの存続に大きく関わることになります。

バレンシアガの歴史 第四章
黄金時代を迎える



1947年、クリスチャンディオールが”ニュールック”と呼ばれる新たなスタイルを発表します。

ニュールックとは、下は膨らんだロングのフレアスカートで、上はウエストがくびれたフィット感のあるジャケットと言う、ディオールらしい品のある洗練されたファッションでもありますが、戦争が終わった直後と言うこともあり、女性らしい煌びやかでエレガントなファッションは当時のフランス中の女性を魅了し、平和のシンボルとも言われていました。

そんな中、ディオールに対抗したバレンシアガは、「バレル・ルック」、「サック・ドレス」と言う新ラインを次々に発表します。

バレル・ルックとは、バレル(樽)のような形で、ウエストラインの無いゆったりとしたシルエットをしており、サック・ドレスは、袋をイメージした寸胴形のシルエットを帯びたドレスで、こちらも体型を気にすることなく着ることが可能で、どちらもクリスチャンディオールの”ニュールック”とは対照的なデザインとなりました。

当時は腰回りをきつく絞るコルセットを着用するのがまだまだ主流だったこともあり、窮屈なコルセットからの解放を表したこの革命的なスタイルは、瞬く間に世界中で話題となります。

モード界の常識を覆した新たなスタイルは、ファッション業界においても大きな影響を与えたと言われており、シャネルの創立者であるココ・シャネルが、「本当のクチュリエは彼(クリストバル氏)しかいない」と語ったほどです。

さらに平面的なフォルムが印象的な「チュニックライン」と言うラインも発表し、これまでに無い発想のシルエットの作品を次々に発表していくクリストバル氏のことを、次第に「オートクチュールの巨匠」、「デザイナー界の王様」、「クチュール界の建築家」などと呼ぶようになり、クリストバル氏は不動の地位を獲得し、ブランドも黄金時代に突入します。

バレンシアガの歴史 第五章
低迷期に突入



1960年には、スペイン出身でベルギー国王ボードゥアン1世の王妃となったファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴンが、結婚式で着用するウェディングドレスを制作しました。



結婚式は世界中に報道され、世界的にバレンシアガの名が広まります。

その後もバレンシアガは様々なトレンドを世に送り出し、ブランドも軌道に乗り続けていましたが、1968年にパリで起こった五月革命によって、やむなくメゾンを開店させることになってしまいます。

そして、クリストバル氏はこれを機にブランドから引退をすることになり、生まれ故郷であるスペインに帰郷し、その4年後の1972年にクリストバル氏の生涯の幕を閉じることになります。

クリストバル氏の引退後は、クリストバル氏の甥がブランドを承継することになりますが、オートクチュールの制作は一切行わずに、香水のみを売るようになり、次第に人気は低迷していくことになります。

バレンシアガの歴史 第六章
新生バレンシアガの誕生



人気が低迷する中、香水を売り続けてブランドを維持し続けてきたバレンシアガでしたが、1987年にブランドは再構築を図ることになり、既製服(プレタポルテ)の販売を再開することになります。



1992年には、ブランドの復活を目指してジョセフュス・メルキオール・ティミスター氏を新たなデザイナーとして招き入れますが、評判は芳しくなく、復活の兆しが見えることがありませんでした。

そんな中、1995年にバレンシアガは新たにニコラ・ジェスキエール氏をライセンス・デザイナーとして招きます。

ニコラ氏は注目の若手デザイナーで、入社して2年後の1997年にはジョセフュス氏が辞任したことにより、新たなクリエイティブ・ディレクターに抜擢され、ここからブランドの快進撃が始まることになります。

1998年、ニコラ氏は大きく生まれ変わった、新生バレンシアガのコレクションを発表します。

ニコラ氏はわずか4ヶ月でデザインを全て描き上げたと言い、これまでのバレンシアガの伝統を継承しながらも、最新のトレンドも織り交ぜた革新的なコレクションは評判も上々で、デビューコレクションにも関わらず幸先の良い幕開けとなりました。

ニコラ氏が手掛けるコレクションは毎回多くの業界人から注目を集めるようになり、2000年にはVHI・ヴォーグファッション・アワードでアバンギャルド・​デザイナー・オブ・ザ・イヤーを受賞し、2001年にはアメリカファッション協議会のインター・ナショナル・デザイン・アワードで受賞を果たします。

長い低迷期に終止符が打たれ、バレンシアガはついに復活を遂げることになります。

バレンシアガの歴史 第七章
グッチグループによる買収



ニコラ氏の功績によって完全復活を遂げたバレンシアガに多くのファッション業界も注目し、中でもバレンシアガと同様に低迷期から見事な復活を遂げたことで知られる人気ラグジュアリーブランドの「グッチ(Gucci)」が、ニコラ氏の才能に目を付けるようになります。

そして、2001年にグッチグループはバレンシアガの買収を行い、これによってバレンシアガはグッチグループの一員となって再出発を果たします。

グッチによる買収によって資金面にも余裕が出るようになったことで世界各地に店舗を出店できるようになり、さらなる事業の拡大を目指して取り組んでいくことになります。

さらに、この年からバッグやシューズの展開、2004年からはメンズコレクションの展開がスタートし、新たな層の取り込みを図ります。

これまでバレンシアガのアイテムは、日本では輸入販売のみでしか入手することができませんでしたが、2006年にバレンシアガ・ジャパンが設立されたことによって、本格的に日本でも事業がスタートすることになります。

翌年の2007年には新宿や渋谷、名古屋、梅田、神戸の百貨店に直営店がオープンし、元々日本でもファンが多いブランドでしたが、直営店ができたことにより知名度もさらに急上昇していきます。

バレンシアガの歴史 第八章
ラグジュアリーストリートブランドに生まれ変わる



2012年、バレンシアガを再び軌道に戻した救世主として、15年もの間に数多くの功績を残してきたニコラ氏が辞任をし、ブランドから去っていきます。

ニコラ氏の後任としてクリエイティブ・デザイナーに就任したのがアレキサンダー・ワン氏です。

アレキサンダー氏は、自身のブランドも立ち上げている台湾系アメリカ人の若手デザイナーでしたが、発表したコレクションの評判が振るわず、わずか2年で辞任することになります。

そこで、辞任したアレキサンダー氏に代わって、新たにデムナ・ヴァザリア氏をアーティスティック・ディレクターとして招きます。



デムナ氏は、人気デザイナーブランドの「ヴェトモン」を設立し、過去にはルイ・ヴィトンでデザインを手掛けていた経験も持ちます。

バレンシアガでのデビューを飾る2016年に発表した秋冬コレクションは、クチュールワークとストリートを融合した新たな世界観を表現し、リアリティーがありながらも、独創的なシルエットを持ったバレンシアガらしさも持ち合わせた前衛的なスタイルは、大きな反響を呼び、成功を収めます。

デムナ氏は、モードにストリートの要素を加えた他のラグジュアリーブランドとは一線を画す独自のスタイルを考案し、バレンシアガは”ラグジュアリーストリートブランド”として生まれ変わることになります。

スニーカーやパーカーと言った、これまでのバレンシアガでは考えられなかったカジュアルなアイテムを続々と展開したところ、ストリートファッションが若者の間で大ブームを巻き起こしていることから、販売したアイテムは次々にヒットを飛ばすようになり、デムナ氏によるブランド改革は大成功を果たし、現在もバレンシアガは、ラグジュアリーストリートブランドのトップを走り続けています。

まとめ



今回は、バレンシアガの歴史についてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?

上流階級や貴族などの限られた層をターゲットにしていたオートクチュールの時代を経て、今では若い世代にも支持を得る、ラグジュアリーストリートブランドへと変貌していったバレンシアガは、今後も止まらぬ勢いで突き進んでいくことでしょう。

brareslab@admin

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