フェンディの歴史
ラグジュアリーファッションブランド「フェンディ(FENDI)」は、グッチやプラダと肩を並べるイタリアを代表するブランドとして愛されており、誰もが一度は見たことがあるダブルFの”ズッカ柄”やピーカブーやバゲットと言ったブランドのアイコンは、今も昔も世界中の女性の憧れの存在でもあります。
そんなフェンディは、1925年に創業した100年近くの歴史を持つ老舗のブランドでもあり、ファッションブランドでは珍しく夫婦によって設立され、その後も現在に至るまで女性が活躍している女系ブランドとしても知られています。
フェンディと聞くと、まずバッグをイメージする方も多いかもしれませんが、最初にブランドの人気に火がついたのは毛皮を使用したアイテムがきっかけだったと言われており、毛皮製品はフェンディの歴史を語る上で欠かすことのできないキーアイテムでもあります。
そんな毛皮の販売からスタートしたフェンディの歴史を深く知ることで、新たなブランドの一面を垣間見れるかもしれません。
そこで今回は、創業から現在までのフェンディの歴史についてご紹介します。
目次
フェンディの歴史 第一章
フェンディの創業
1925年、アデーレ・フェンディとエドアルド・フェンディ夫妻が、イタリアのローマで皮革製品を扱うブランド「フェンディ」を立ち上げ、ここから今に続くフェンディの歴史がスタートします。
その翌年の1926年には、イタリア・ローマのプレビシート通りに、皮革製品とファーを使った毛皮工房を併設したショップをオープンさせます。
皮革製品だけでなく毛皮工房も併せて作った理由には、当時アメリカのハリウッドを中心に襟巻の毛皮が大流行していたことから、トレンドに敏感なフェンディ夫妻が素早く目を付けたと言われています。
結果的に、毛皮製品を売り出すとともにヒットを飛ばし、中でも毛皮のコートは地元のイタリア人に高く評価され、好評を得ることになります。
毛皮製品のヒットをきっかけに早くも事業を軌道に乗せることに成功し、次第にフェンディの評判はローマ外にも広まるようになります。
順調に事業を拡大し続けるフェンディは、1932年にはピアーヴェ通りに新たに工房を併設したブティックをオープンさせ、その際に「クオイオ・ローマ」と言う新しいバッグを発表します。
クオイオ・ローマとはオランダ製カーフレザーのことで、ローマの馬具職人の巧みな技法を用いて、一つひとつ伝統的な製法で作られるハンドメイドのバッグです。
機械化が進行する中で完全手作業で作られるこのバッグは、機械製のバッグの6倍以上の製作時間を要し、生産効率は決して良くないものの、職人によるハンドステッチが施された温もりのあるバッグは、瞬く間に評判を呼ぶことになり、今でもクオイオ・ローマはフェンディを代表する最高級レザーとして親しまれています。
フェンディの歴史 第二章
家族経営ブランドに
1933年、フェンディは新たな素材である「ペルガメーナ」を発表します。
ペルガメーナはイタリア語で羊皮紙(ようひし)と言う意味を持ち、バッグだけでなくスーツケースやトランクなど様々な製品に使われ、現在もフェンディを代表する素材の1つでもあります。
さらに事業の拡大によって、革製品と毛皮製品の工房を拡張し、イタリアを代表するファッションブランドへと躍進していきます。
1946年、アデーレ氏とエドアルド氏の長女であるパオラが、15歳と言う若さで経営に携わるようになります。
その後も、夫妻の娘であるアンナ、フランカ、カルラ、アルダの4人娘も立て続けに家業を手伝うことになり、家族揃って経営を営むようになります。
若さ溢れる娘たちのセンスやアイデアが反映されることによって、ブランドはますます活気づくようになり、ブティックは連日賑わいをみせることになります。
1950年には、ローマのグランドホテルにて、「Amore」と呼ばれる、初のカプセルコレクションを発表します。
さらに、初となるイブニングクラッチバッグ「エックスレイ」を発表し、この頃から様々なシーンに対応したバッグが登場するようになります。
1964年、ローマの中心地にあるボルゴニョーナ通りに新たなブティックをオープンします。
これまでの店舗同様にアトリエが併設され、このブティックはその後40年以上に渡って営業を続けることになりました。
フェンディの歴史 第三章
ラガーフェルド氏の就任
1965年、27歳のデザイナーであるカール・ラガーフェルド氏を毛皮のデザイナーとして招き入れます。
シャネルやクロエのデザイナーをしていた経験があるラガーフェルド氏は、通っていたファッション養成校では、同期にイヴ・サン=ローラン氏がおり、学生時代には国際コンクールで優勝した実績も持つ実力者です。
ラガーフェルド氏は、エナメル加工やステッチと言ったこれまでの毛皮製品には無い様々な技法を取り入れた革新的なファーアイテムを制作し、重厚でクラシカルなイメージがあった毛皮のイメージを刷新してソフトでファッション性の高いアイテムへと生まれ変わらせたことで、大きな話題を呼ぶことになります。
さらに、ラガーフェルド氏はフェンデイを代表するダブルFのロゴである「ズッカ柄」を普及させた人物としても知られています。
これまでダブルFのロゴは、創業当時から使われていたものの、コートやバッグの裏地にしか使われておらず、ラガーフェルド氏は、このロゴを表地にも使うべきだと提案をします。
こうして、このロゴはズッカ柄と呼ばれるようになって表地にも使用されるようになり、それ以降、フェンディを象徴するデザインとして世界中で愛されるようになります。
1969年には、毛皮コートのプレタポルテを発表し、さらに新たな素材や製法で作られたバッグや小物も同時に発表します。
次々に新たな試みを採用していくラガーフェルド氏の類まれなるセンスによって、フェンディは着実にイタリア随一のラグジュアリーブランドへと駆け上がっていきます。
また、この頃から数多くの映画でフェンディのアイテムが使われるようになり、さらにダイアナ・ロス、ソフィア・ローレン、ジャクリーン・ケネディ・オナシス、ライザ・ミネリと言った、世界的に有名なセレブリティが、イベントなどの場でフェンディを愛用する姿を目にするようになります。
フェンディの歴史 第四章
日本に初出店
日本でのフェンディの展開は、1972年に日本の企業であるアオイと取引を開始し、国内での正式な取り扱いをスタートすると、1974年に赤坂のホテルニューオータニに国内初のフェンディのブティックがオープンしました。
赤坂のブティックでは毎年、シーズン前に毛皮の受注会が行われていることでも有名で、フェンディのファーを持つことは日本の女性にとってもステータスだったと言われています。
1970年後半に入ると、フルラインでのプレタポルテ(既製品)をスタートします。
これまでの毛皮や革製品に加えて、新たにジャケットやコートと言ったアパレルの展開をスタートさせると、デザインもよりモダンで洗練され、機能性にも優れたアイテムを次々に発表し、ラインナップを増幅させることで新たな顧客の獲得を目指し、さらなる躍進を続けていきます。
ラガーフェルド氏が初となるプレタポルテコレクションを発表した際には、ニューヨーク5番街の高級デパート「ヘンリ・ベンデル」が、あまりの素晴らしさに魅了され、コレクションを全て買い占めてしまったと言う逸話が残されています。
また、これまでバッグに使用するレザーは硬めの物が主流でしたが、時代の変化と共に機能性を重視したものが好まれるようになった為、この頃からソフトな素材のレザーを使用するようになります。
これによって多くの女性に支持を得られ、フェンディ=毛皮のイメージが、徐々に毛皮とバッグに定評のあるブランドへと変貌していきます。
フェンディの歴史 第五章
メンズコレクションを展開
1983年、ズッカ柄と並ぶ2大デザインとして知られる、ストライプ柄の”ペカン”が初登場します。
大き目のストライプ模様がラグジュアリー感のあるモダンな雰囲気を演出し、現在もフェンディのアイコンとして様々なアイテムに使用されています。
1984年、スカーフ、ネクタイ、サングラス、グローブなどの小物アイテムが新たにラインナップに加わり、翌年の1985年には、初となるフレグランスが登場します。
さらに1985年には、ローマ現代美術館にてブランド設立60周年と、カール・ラガーフェルド氏が就任して20周年を記念した展覧会が開催されました。
1988年、フェンディはウォッチコレクションの展開をスタートします。
それを記念してメンズ用のフレグランスの販売もスタートし、1990年にはアパレルと小物類のメンズコレクションを発表します。
ここから男性をターゲットにしたアイテムが数多く登場するようになります。
1992年、創業者アデーレ・フェンディの孫であり、アンナ・フェンディの娘であるシルヴィア・べントゥリーニ・フェンディが入社し、ラガーフェルド氏のアシスタントを務めることになります。
フェンディの歴史 第六章
人気バッグ「バゲット」を発表
1990年代に入ると、フェンディの看板商品でもある毛皮製品は、加工技術が発達したことによって着心地が格段に良くなり、さらに、独自の合成技術を開発し、リバーシブルのグレインド・レザーと言った、最近のテクノロジーを駆使して作られたアイテムが登場するようになります。
また、1990年以降には、カシミヤやシルクなどの高級素材と毛皮を組み合わせたラグジュアリーブランドに相応しいコレクションが登場し、大きな反響を呼びます。
1994年、シルヴィア氏は、アイコニックの「セレリア」シリーズを再解釈した新たなアイテムを発表します。
そしてシルヴィア氏は、この年にアシスタントからアクセサリーの主任デザイナーに異動することになります。
1997年には、現在もフェンディのアイコンバッグとしておなじみの「バゲット」を発表。
バゲットのデザインはシルヴィア氏が手掛けており、フランスパン(バゲット)を脇で抱えているように持ち歩くことからその名が付けられ、97年の秋冬コレクションでの発表時に大きな反響を呼ぶと、一大ブームを巻き起こします。
バゲットは現在まで1000種類以上のバリエーションが登場しており、累計で40万個以上を売り上げ、ロングセラーヒットを記録しています。
1999年、新作バッグである「ロールバッグ」を発表します。
ロールバッグは、抜群の収納力と長めのハンドルでトートバッグとして使用できる機能性の良さで人気が高く、現在もなお、フェンディの定番バッグとして愛されています。
フェンディの歴史 第七章
ルイ・ヴィトングループの傘下に
1999年、LVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー)とプラダと共に、合弁会社を設立します。
2000年、バゲットが大ヒットした功績を称えられ、フェンディはファッショングループインターナショナルのアクセサリー賞を受賞します。
同年には、直営店を世界中に次々とオープンさせ、これまで4店舗しか無かった直営店が80店舗にまで拡大します。
2001年、フェンディのアイコンである、ズッカ柄を一回り小さくしたデザインである「ズッキーノ」を発表します。
ズッキーノは、通常のズッカ柄に比べて目立ちにくく、上品で落ち着いた印象なことから根強い人気があり、今ではズッカ柄に続いてフェンディの定番デザインとして愛されています。
また2001年には、プラダが保有していた合弁会社の株の全てをLVMHグループが買収し、LVMHがフェンディの筆頭株主になると、フェンディはLVMHグループの傘下に入ることになります。
LVMHグループの傘下に入ったことで、それ以降に開店する直営店は他のLVMHグループと共に展開されることが多くなり、2002年に神戸の旧居留地商業ビルに直営店が開店した際には、同ビルにルイ・ヴィトンやベルルッティも同時にオープンしました。
フェンディの歴史 第八章
モンスターモチーフを発表
2009年、「ピーカブー」と呼ばれる新作のバッグを発表します。
日本語で”いないいないばぁ”と言う意味のピーカブーは、金具を外した状態の見た目がいないいないばぁをしているように見えることからその名が付けられたと言うエピソードがあり、スタイリッシュでモダンなデザインのバッグは、セレブリティの間で大流行を巻き起こし、現在はバゲットと並ぶ人気バッグとして定着しています。
2013年、シルヴィア氏は、ユーモアに溢れた新デザインの「バッグバグズ(Bag Bugs)」を発表。
バッグ バグズはモンスターをモチーフした遊び心のあるデザインで、これまでのフェンディのイメージを覆した、ユニークで衝撃的なデザインだったこともあり、多くの話題を集めました。
モンスターモチーフのアイテムは、それ以降多くのアイテムが登場するようになり、フェンディのもう一つのアイコンとして親しまれています。
2017年、東京・銀座のギンザシックスに、旗艦店である「フェンディ 銀座店(FENDI GINZA)」が誕生します。
国内最大級となる銀座店は、バッグを始めアパレル、アクセサリー、シューズなど全てのカテゴリーを網羅しており、ファーのオーダーメイドサロンや日本初となるVIPルームも設置されています。
また、同年には新作バッグである「キャナイ」を発表しました。
キャナイは、コンパクトなフォルムが特徴的なチェーンバッグで、スタッズやラメなどが散りばめられた華やかなデザインが揃い、同名の新作サングラスも登場しました。
2020年、キム・ジョーンズ氏がウィメンズのオートクチュール、レディ・トゥ・ウェア、ファーのアーティスティックディレクターに就任します。
ロンドン出身のデザイナーであり、現在ディオールのメンズアーティスティック・ディレクターも担当しているジョーンズ氏は、ディオールのディレクターも引き続き継続しつつ、今後はシルヴィア氏と共同でフェンディを率いて行くことになります。
まとめ
今回は、フェンディの歴史についてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?
創業者の一族との関わり無くなるブランドが増えていく中で、代々受け継がれ、現在も創業者の孫が活躍をしているフェンディは、今後もファミリービジネスを武器にして、さらに世界に羽ばたいていくことでしょう。