サンローランの歴史

フランスを代表するラグジュアリーブランドの1つとして知られる「サンローラン・パリ(サン・ローラン)」は、モード界の帝王と呼ばれる巨匠イヴ・サンローラン氏によって1961年に創設されたブランドです。

弱冠21歳でディオールの主任デザイナーに抜擢され、青年時代から才能を開花させていたサンローラン氏は、2002年に引退をするまでにフランスのファッション界に数多くの影響を与えてきました。

サンローランがトップブランドに上り詰めるまでの長い道のりには様々な逸話が存在し、ブランドの歴史を知ることで、より一層サンローランに興味が沸いてくるかもしれません。

そこで今回は、人気ブランド「サンローラン・パリ(サン・ローラン)」の歴史についてご紹介します。

サンローランの歴史 第一章
創業者イヴ・サンローラン氏の誕生



サンローランの創業者であるイヴ・サンローラン氏は、1936年8月1日、フランス領アルジェリアの港町であるオランで生まれました。


両親は保険会社に勤めており、比較的裕福な家庭で育ったサンローラン氏は、17歳のときに母親の後押しによってパリに移住し、ファッションデザイナー養成校である、パリ・クチュール組合学校に入学します。

学校での成績は極めて優秀で、3ヵ月間のコースの終了時に開催されたデザインコンクールでは、ドレス部門において、サンローラン氏が発表したカクテルドレスが最優秀賞を受賞することになります。

また、このときにカクテルドレスを縫製したのは、あのユベール・ド・ジバンシィで、さらにはコート部門で受賞をしたのは、シャネルやフェンディのデザイナーとして有名なカール・ラガーフェルドだったと言われ、後のファッション界をけん引きしていくデザイナーが勢揃いした、伝説的なコンクールとして語り継がれています。

サンローランの歴史 第二章
ディオールの主任デザイナーに



カクテルドレスがコンクールで最優秀賞を受賞したことで、人生を変える転機が舞い降りてきます。



コンクールの審査員であったファッション誌「VOGUE」のディレクターであるミッシェル・デブリュノフ氏が、サンローラン氏の独創的で想像力に溢れるデザインに感銘を受け、サンローラン氏をクリスチャン・ディオールに紹介します。

紹介を受けたクリスチャン・ディオール氏はサンローラン氏の感性やデザインセンスを高く評価し、才能を認めると、1954年にサンローラン氏をブランドに迎え入れることになり、サンローラン氏を自身の後継者の候補として育成を開始します。

その後1957年にクリスチャン・ディオール氏が亡くなると、サンローラン氏は次期のディオールの主任デザイナーとして抜擢されることになり、21歳と言う若さで一流ブランドのデザイナーに任されると言う快挙を成し遂げます。



1958年春、サンローラン氏は、ディオールで自身の最初のコレクション「トラペーズライン」を発表します。



フランス語で台形と言う意味のトラペーズは、裾に向かうにつれて広がっていく女性らしい優美なシルエットで、発表直後の地元の新聞には、イブ・サンローランはフランスを救い、偉大なディオールの伝統が続くことになったと賞賛を上げ、プレッシャーに押し潰されそうになりながらも、サンローラン氏は見事にデビューコレクションを成功に導きました。

サンローラン氏の新生ディオールは、ディオールの顧客にも絶賛され、当時の顧客リストには、イギリスのウィンザー公爵夫人の名前もあったと言われています。

サンローランの歴史 第三章
イヴ・サンローランの創業



「トラペーズライン」がヒットを飛ばし、一躍トップデザイナーとしての箔が付いたサンローラン氏でしたが、次に発表した裾を狭めたデザインの「ホブル・スカート」や、ストリート調のデザインである「ビートライン」は、エレガントさが欠けているディオールにそぐわないデザインだとして不評となってしまいます。



1960年、サンローラン氏はフランス軍に徴兵され、アルジェリア独立戦争に出兵することになり、これをきっかけにディオールを事実上解雇されます。

除隊後の1961年、サンローラン氏は恋人であるピエール・ベルジェ氏、そしてアメリカの実業家であるマック・ロビンソンとタッグを組み、マック氏の援助によってオートクチュールメゾン「イブ・サンローラン」を立ち上げます。



ブランドの設立にあたって、サンローラン氏はフランスの有名グラフィックデザイナーである、アドルフ・ムーロン・カッサンドル氏にブランドロゴのデザイン作成を依頼します。

Y・S・Lを重ね合わせた印象的なロゴは、作成者の名にちなんで「カサンドラ・ライン」と言う名で呼ばれることもあります。

また、「イヴ・サンローラン」の最初のコレクションには、フランス公爵の娘であるルル・ド・ラ・ファレーズをモデルに起用し、話題性を集めました。

サンローランの歴史 第四章
ニューモードを確立



1965年に発表した「モンドリアン・ルック」では、オランダの有名抽象画家である、ピエト・モンドリアンから着想を得てデザインした、カラフルなミニドレスを発表します。

現代的なモダンアートをファッションで見事に表現したミニドレスは、白地の生地に太い黒の水平線と垂直線で分割し、そこに赤・青・黄の原色カラーをランダムに大胆に配色をした、一度見たら忘れられないインパクトのあるデザインで、新時代のファッションとして多くの反響を集めました。



また、モンドリアン・ルックで発表されたブロックヒールの靴は、1967年公開の映画「昼顔」で、女優のカトリーヌ・ドヌーヴが着用したことで、1年で20万足を売り上げる大ヒットを記録します。



1966年には、新たなラインの「ル・スモーキング」を発表します。



ル・スモーキングは、男性用のタキシードを女性用にアレンジしたスタイリッシュなデザインのスーツで、サンローラン氏は、タキシードは男性の為のものではなく、女性でも身に着けられると言うことを、示す為にデザインに至ったと言われており、今では定着した女性のスーツ+パンツスタイルの先駆けとも言われています。

また同年には、既製服であるプレタポルタラインを取り扱うブティック「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ」をパリにオープンします。



プレタポルテでは、若者をターゲットにしたストリートファッションを取り入れたデザインを多く打ち出し、オートクチュールとの差別化を図っていました。



1968年に発表した「シースルードレス」は、名前通り透けている素材を使用したドレスで、今では当たり前となっているシースルー素材は、サンローランから始まったと言われており、発表直後から大きな反響を呼び、一大ヒットを記録しました。



サンローラン氏が手掛けるコレクションの数々は、どれも従来のモードスタイルとは異なる斬新で革新的なデザインだったことから、次第に”ニューモード”と呼ばれるようになり、ココ・シャネルからは「サンローランこそ私の後継者」と実力を認められ、サンローラン氏はモード界の帝王として称えられることになります。

サンローランの歴史 第五章
斬新なスタイルを次々に発表



次々と斬新で画期的なスタイルを発表し、これまでのファッションの定義を覆していくサンローランでしたが、中でもファッション業界に大きな衝撃を与えたのがサファリルックです。



男性の狩猟用の服を女性向けにアレンジをしたサファリジャケットスタイルは、太いベルトでウエストマークを施して女性らしいシルエットを演出し、カッコよさを取り入れつつも、エレガントな新スタイルを生み出しました。



また、アパレルだけでなく、エレガントで女性らしいデザインのシューズも大人気となり、現在の冬のファッションの定番となったロングブーツは、サンローラン氏が考案したと言われています。



1985年、サンローラン氏が、フランスの最高勲章であるレジヨン・ドヌール勲章を受勲します。



1989年、イブ・サンローランがパリ証券取引所で株式公開をします。



株式公開はファッションブランドでは史上初となり、大きな話題となりました。



1993年、サンローラン氏がフランス・オートクチュール組合のデ・ドール賞(金の指貫き賞)を受賞します。



同年、サノフィ・ボーテ社にイヴ・サンローランが買収され、ここから激動の時代が始まります。

サンローランの歴史 第六章
新鋭デザイナーが次々に就任



1997年、エディ・スリマンがメンズラインのアーティスティック・デザイナーに就任します。



エディ氏は1998年にスタートしたジーンズラインも担当することになり、エディ氏は同時は無名に近かったものの、どちらのラインも高く評価され、ブランドに新たな風を吹き込みました。



1999年、イスラエル人のデザイナー、アルベール・エルバス氏が「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」のレディースラインのデザイナーに就任し、サンローラン氏は、オートクチュール部門に専念することになります。



2000年、ピノー・プランタン・ルドゥート(現ケリング)によってサノフィ・ボーテ社が買収され、サンローランは、ケリング傘下に入り、この買収劇の最中にアルベール氏が辞任をします。



2001年、「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」のクリエイティブ・ディレクターとしてトム・フォード氏を迎え入れます。



そして、40年に渡って第一線で活躍をしてきたサンローラン氏が、2002年1月に開催されたオートクチュールコレクションをもって引退をし、同時にイブ・サンローランのオートクチュール部門も閉鎖することになります。

サンローランの歴史 第七章
サンローラン・パリに改名



2004年、トム・フォード氏が辞任をし、後任にステファノ・ピラーティが就任します。



2007年、サンローラン氏の長年の功績を称え、フランス大統領からレジオン・ドヌール勲章 グラントフィシエ受章を授与されます。



2008年、創業者であるサンローラン氏が生涯に幕を閉じます。



当時のフランス首相であるフランソワ・フィヨン氏は「サンローランのオートクチュールは永遠に歴史に残る」と述べ、多くの著名人が別れを惜しみました。



2012年、メンズラインとジーンズラインのデザイナーを務めていたエディ・スリマン氏がサンローランに復帰し、ステファノ・ピラーティに代わってクリエイティブ・ディレクターに就任します。

鬼才デザイナーとして知られるエディ氏は、2000年にディオールのディレクターに就任し、一度はイブ・サンローランを離れたものの、その後ブランドが低迷期に突入したことにより、ブランドを立て直す為に再び戻ってきたと言われています。



エディ氏はブランド改革を大胆に行うことでも有名ですが、就任してすぐにプレタポレテのブランド名を、「イブ・サンローラン」から「サンローラン・パリ(サン・ローラン)」に改名をしました。

これまでのイメージを一新する為に改名をしたと言われていますが、有名なYSLのロゴは引き続き使用することになり、なお、コスメやフレグランスのラインは改名されず、現在も「イブ・サンローランボーテ」として展開されています。



エディ氏が手掛ける新生サンローランは、これまでの伝統を継承しながらも、ストリートやロックと言った現代的なテイストを盛り込んだことで新たな層を取り込むことに成功し、エディ氏の快進撃によって売上も回復していくことになります。

サンローランの歴史 第八章
アンソニー・ヴァカレロ氏の着任



2016年10月、4年間サンローランをけん引きしてきたエディ氏がクリエイティブ・ディレクターを辞任することになり、後任にはフェンディやヴェルサーチでデザイナーをしていたアンソニー・ヴァカレロ氏が着任することになりました。



アンソニー氏は、エディ氏の世界観を継承しつつも自分のカラーもしっかりと取り入れ、ボディラインにこだわったダークでダイナミックなデザインを多く展開し、アンソニー氏による新たなサンローランの幕が開きました。



2019年、アンソニー氏はサンローランとの契約を3年更新したことが、関係者によって明らかにされます。



今後も、エネルギッシュ溢れる、アンソニー氏が手掛けるサンローランに注目が集まります。

まとめ



今回は、サンローランの歴史についてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?



ニューモードを生み出し、ファッション史においても数多くの偉業を成し遂げてきたイブ・サンローランは、これからも、他には無い大胆で革新的なスタイルを作り出していくことでしょう。

brareslab@admin

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