プラダの歴史

「プラダ(PRADA)」は、誰もが一度は目にしたことがあるはずの、逆三角形のロゴプレートやナイロン製のバッグでおなじみの、イタリアを代表するラグジュアリーブランドです。

ナイロン製のバッグ以外にも、近年では小物やアパレルも高い人気を集めており、1913年の創業以来、今も昔も多くのセレブリティを魅了しています。

現在はトータルファッションブランドとして台頭しているプラダですが、創業当初は皮革製品を専門的に扱っており、革新的なナイロン製バッグ「ポコノ」が登場したのは、ブランドを立ち上げてから60年以上も経った後のことでした。

日本でも多くのファンを持つプラダですが、歴史自体はあまり知られておらず、意外に知られていないブランドの歴史を知ることで、新たな発見があるかもしれません。

そこで今回は、創業から現在までのプラダの歴史についてご紹介します。

プラダの歴史 第一章
皮革製品店をオープン



1913年、マリオ・プラダとマルティーノ・プラダの兄弟が、イタリア・ミラノの中心地にあるショッピング・アーケードのガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世に、「フラテッリ・プラダ(Fratelli Prada)」と言う皮革製品店を開業します。



フラテッリとは、イタリア語で兄弟と言う意味を持ち、兄のマリオ氏と弟のマルティーノ氏は、アメリカやヨーロッパを旅しながら、クロコダイルや象、セイウチと言ったイタリアでは珍しい希少な動物の皮革を集め、これらの素材を使用し、熟練した職人によってスーツケースやバッグ、旅行用アクセサリーなどのアイテムが制作されました。



優れたデザインや、職人が手掛けた高品質な皮革製品は高く評価され、ミラノの上流階級や貴族にも評判が知れ渡ります。



1919年、プラダの製品がイタリアの王室御用達に指名されます。



王室御用達に認定されるとプラダの商標ロゴにサヴォイア王家の紋章のデザインを表示できるようになり、ブランドにも箔がつくことになります。



創業して僅か数年もの期間で王室御用達に指名されると言う名誉を受け、ブランドはさらに躍進していきます。

プラダの歴史 第二章
防水バッグが大ヒット



1920年代に入ると、王室御用達に認定されたことによって、海外からも多くの人が連日詰めかけるようになり、プラダのアイテムを持つことがセレブリティの間でステータスとなります。



そして、プラダ兄弟はビジネスのさらなる拡大を図り、高級ブランドのブティックが立ち並ぶマンゾーニ通りに2つ目の店舗をオープンします。



マリオ氏は、当時の旅行用バッグで主流であったセイウチなどの革で作られた重さのあるスーツケースに代わって、軽量で当時はまだ珍しかった防水生地を使用したバッグを発表します。



防水を施したバッグは瞬く間にヒットを記録し、特にビジネスマンの間で絶大な支持を得るようになり、これがきっかけでプラダの名がさらに広く知れ渡るようになります。



しかしこのときは、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての最中で、戦争の影響によって順風満帆に思えた経営にも次第に陰りが見えてきます。



戦争によって旅行ができなくなったことでスーツケースや旅行バッグの需要が無くなり、高級革製品自体が時代にそぐわないものになってしまいます。



さらに混乱によって皮革の仕入れも困難になったりと、様々な危機に直面し、その上、ミラノに開店を予定していた3つ目の店舗の出店も中止となってしまいます。



そして、深刻な経営不振に陥ったことで、本店を残して2号店の閉店を余儀なくされます。



またこのときに、マルティーノ・プラダ氏が政治的問題によってプラダを離れることになり、今後はマリオ氏1人で経営を継続していくことになりました。

プラダの歴史 第三章
低迷期からの復活



第二次世界大戦終戦直後の1946年、国民投票によってイタリアの王政が廃止され、これによって王室御用達と言う輝かしい称号も剥奪されてしまいます。



1958年、創業から長きに渡ってブランドを支えてきたマリオ・プラダ氏がこの世を去り、その後の事業はマリオ氏の娘であるナンダとルイーダが引き継ぐことになりました。



マリオ氏の娘達は、時代の変化に合わせて顧客のターゲットを上流階級から中産階級に変更し、ブランドの再起を図りましたが、その後も売上は伸び悩み、低迷期が続くことになります。



ブランドはその後、10年以上もの間、飛躍をすることはなく、ひたすら低空飛行を続けていましたが、ついに復活の兆しが見えてくることになります。



1978年、マリオ氏の孫娘にあたり、ルイーダの娘であるミウッチャ・プラダ氏が、オーナー兼デザイナーに就任することになります。



1950年にミラノで生まれたミウッチャ氏は、ミラノ大学では社会学部政治学科を専攻し、博士号を取得した実力者です。



ミウッチャ氏が手掛ける新生プラダは、”日常を贅沢に飾る”をコンセプトにし、斬新なデザインに革新的な素材を使用した、現代と歴史的な調和によって表現された前衛的な作品の数々を発表しました。



発表直後から世界的なブームを巻き起こし、ミウッチャ氏の貢献によって、ついにブランドは復活を果たします。

プラダの歴史 第四章
ナイロンバッグ「ポコノ」を発表



ミウッチャ氏の快進撃によって、再びイタリアを代表するラグジュアリーブランドに返り咲いたプラダは、さらに革新的なバッグを発表したことで多くの反響を集めることになります。



それこそが、現在もプラダのアイコンとして親しまれている、ナイロン製シリーズの「ポコノ」です。



これまでのプラダとは一線を画す、ナイロン素材を使用したポコノは、ミウッチャ氏の祖父である、マリオ氏が以前に旅行バッグなどに使っていた工業用の防水ナイロン素材を用いられており、この素材をミリタリー用品の工場でたまたま見つけたミウッチャ氏は、軽くて耐久性にも優れ、さらに防水で手触りも良いこの素材をいたく気に入って、採用をしたと言う逸話があります。



また、「ポコノ」が生まれたきっかけには、ミウッチャ氏の夫である実業家のパトリッツィオ・ベルテッリ氏がミウッチャ氏に助言した、あるアドバイスが大きく影響していると言われています。



パトリッツィオ氏は、皮革製品の製造メーカーのオーナーでしたが、一時期はプラダのコピー品を作り、見本市で販売をしていたと言います。



コピー品の噂を聞いたミウッチャ氏は、販売していた見本市に乗り込んでいった際にパトリッツィオ氏を出会います。



その後、紆余曲折の末にプラダは、パトリッツィオ氏の皮革製造メーカーとライセンス契約を結ぶことになり、2人はビジネスパートナーとして関係を築いていった後に、なんと結婚をすることになります。



晴れて夫婦となると、パトリッツィオ氏もプラダの事業に関わるようになり、ミウッチャ氏がデザインを手がけ、一方のパトリッツィオ氏が生産や経営面を支えていくことになりました。



そんなある日のこと、パトリッツィオ氏は妻であるミウッチャ氏に、「プラダは新しい一歩を踏み出さなければならない」と、アドバイスをします。



そのような経緯からミウッチャ氏は革新的なポコノを考案しますが、一部の内部のスタッフからは、ナイロン素材を取り入れることに対し、多くの批判的な意見が寄せられたと言います。



んな中、いざ発売に至ると当初は世間の評価はいまいちだったものの、徐々に評価されるようになり、1980年代にはポコノが社会現象となるほど大ヒットを記録します。

プラダの歴史 第五章
シューズ、プレタポルテの展開をスタート



1979年、事業の拡大に伴い、プラダはレディースシューズの販売を開始します。



ミウッチャ氏は靴の事業については否定的だったものの、パトリッツィオ氏に薦められて展開をするようになり、なめし革を使用したデザイン性の高いシューズは多くの女性を虜にし、見事成功を収めます。



1983年、ミラノのスピーガ通りに、プラダグリーンの配色を取り入れた新たな直営店「グリーンストア」をオープンします。



その後は、ロンドンやマドリード、パリ、ニューヨーク、そして東京など、世界の主要都市に次々と直営店を開店します。



1988年には、婦人服のプレタポルテの展開をスタートし、秋冬のミラノコレクションにて華々しくデビューを飾りました。

さらに1993年には、メンズのプレタポルテとシューズのコレクションの展開をスタートします。

また同年には、プラダのセカンドラインとなるブランド「ミュウミュウ(miu miu)」の展開がスタートします。

ミュウミュウとは、ミウッチャ氏の幼少時代のときの愛称で、プラダよりも若い年齢層をターゲットにしています。

プラダの歴史 第六章
ポコノの新シリーズが始動



1996年、大人気のポコノに逆三角形のロゴプレートを配置した、新たなシリーズを発表しました。



普段使いにも通勤にも使用できるサイズ感のリュック(バックパック)やショルダーバッグが特に人気となり、世界中でトレンドを巻き起こしました。



1997年、プラダの新ラインである「プラダスポーツ」の展開がスタートします。



ラグジュアリーとスポーティーを融合した革新的で洗練されたデザインはたちまち評判になり、現在は”リネアロッサ”と言う名称で展開されています。



2000年、メガメやサングラス等のアイウェアコレクションをプラダとミュウミュウで同時に展開がスタートします。



アイウェアのデザイナーには、有名なメガネ&サングラスデザイナーであるオリバーピープルズ氏が就任しました。



2003年、東京・青山に国内最大となる旗艦店「エピセンター・ストア」がオープンします。



建物の設計には、スイスを代表する建築家であるジャック・ヘルツォーク氏とピエール・ド・ムーロン氏を起用し、数種類のガラスを使用した芸術的な外観は、現在も青山で一際存在感を放っています。

プラダの歴史 第七章
フレグランスの展開をスタート



2004年、プーチ(Puig)社とのコラボレーションによって、プラダ初の香水となるレディース向けのフレグランスコレクションの展開をスタートします。



2006年にはメンズ用の香水も登場し、香りだけでなくおしゃれな見た目のパッケージで若い層にも高い人気があります。



2006年、映画「プラダを着た悪魔」が公開され、世界的に大ヒットを記録します。



作中ではプラダの衣装やアイテムがふんだんに使用され、映画の公開によって認知度がさらに上昇しました。



2008年、プラダ初の携帯電話である「PRADA Phone by LG(プラダフォン バイ エルジー)」発表します。



プラダとLGエレクトロニクスが共同開発し、世界初となるタッチスクリーンを採用した最先端の携帯電話は、発売18カ月で販売台数100万台を突破するなど好調な売り上げを記録し、ドコモから発売された日本市場向けモデルは、プラダファンの間で大きな話題となりました。



2011年、秋冬コレクションで新作シリーズ「カナパ」を発表します。



キャンバス素材やデニム素材を使用し、中央にプラダのロゴマークを大きくプリントしたカジュアルな雰囲気のバッグで、ミランダ・カーやアシュレー・オルセンと言った、有名セレブリティが愛用したことで人気に火が付き、今ではプラダのアイコンバッグの1つとして親しまれています。

プラダの歴史 第八章
ラフシモンズ氏の就任



2013年 創業100周年を記念し、100周年プロジェクトの一環として、本店があるガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の再開発計画をミラノ市から委託されます。

新たにアートスペースやレストランを設置し、さらにプラダのグループ本部も置かれ、今後はプラダがミラノの文化を発信する役目を担っていくことになります。



2019年 リサイクルナイロンを使用したカプセルコレクション「Re-Nylon」を発表します。



新たに開発されたナイロン素材は、漁網や繊維廃棄物から作られた持続可能な原料から作られており、今後は、ラグジュアリーブランドでも環境に配慮したサステナブル素材が増えていくかもしれません。

2020年、これまでたった一人でデザイナーをけん引きしてきたミウッチャ氏でしたが、共同デザイナーとして新たにラフシモンズ氏を招き入れることになります。

世界的な有名デザイナーであるラフシモンズ氏とのタッグによって、今度、どのような化学反応が起こっていくのか、注目が集まります。

まとめ



今回は、プラダの歴史についてご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?



皮革製品にこだわる高級ブランドも多い中で、機能性を重視した様々な素材を取り入れ、独自の道を突き進んでいくプラダは、これからも他にはない革新的なアイテムを生み出していくことでしょう。

brareslab@admin

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

コメントする